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2011年10月19日 (水)

播磨・御着城

仕事の都合で御着へ行った。
こんなチャンスはめったにない。
最近 「乱世が好き」 を読んでからこのあたりの時代の武将を記述している。
当然この城も出て来る。
と言う事でよってみた。
御着駅を降りてから変な近道と言うか細い道を通って行った。
あまり親切では無い。城跡までの道しるべがほとんどない。
と言うか見当たらなかった。
最初から二号線に出て探せばよかった。
でもあまり有名ではないかも知れない・・・・・・
公民館のところに石碑がある。
公民館は城をイメージして模擬的に建てられている。
あまり似合わないと思うが・・・・・


姫路市東方の御着は、山陽道(国道2号の若干南)が通る交通の要衝として、赤松氏の守護所が設けられていたようである。永正16年(1519年)になって小寺政隆が御着の茶臼山と呼ばれる小丘上に城を築いた。姫路城代であった小寺氏が御着城を築いた。
政隆の子の小寺則職の頃から御着城を本城、姫路城を支城としていたようで、姫路城には家老の八代道慶や黒田氏を城代として派遣していた。当時の播磨では比較的大規模な城であったらしく、別所氏の治める三木城、三木氏の治める英賀城と並んで播磨3大城郭のひとつに挙げられていた。
天正5年(1575年)、織田氏の中国地方攻略の一環で羽柴秀吉が播磨へ侵攻する。則職の子、小寺政職は家老の小寺孝高(黒田孝高、官兵衛、如水)の進言もあり当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調。天正7年(1579年)、秀吉は別所氏の三木城を支援していた播磨の諸城を攻撃、御着城も落城した。


御着は姫路駅から一駅である。が180円する。ちょっと高い。大分高いかも・・・・・・
確かに一駅の割には距離はある。
まして新快速も止まらないし、昼は30分に1本だ。
かっては中心だったところだが、今は辺境の地と言うべきか? 
やはり播州にも住んでいたので行ってみなければならないと思った。
しかし歩き疲れました!

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