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2014年7月 4日 (金)

軍師 官兵衛(番外編)鳥取城攻防戦『吉川経家の奮戦!』 (二郎作)

鳥取城攻防戦は放送が無かった。
期待していたので寂しかったです!
三木城から備中高松城へ飛んでしまった。

ここは秀吉の冴えを描くべきと思うが・・・・・・・
1580年(天正8年)秀吉の第一次鳥取城攻めで山名豊国は降伏。
ところが、同月3月毛利の来訪で再度の降伏。
鳥取城は毛利方になる。
この時点で山名豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
同年4月、山名豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をする。
毛利は何人かの城将の入れ替えの末、吉川一門で文武両道に優れた経家を派遣する。
経家は自らの首桶を用意しており、その決死の覚悟を窺うことができる!
鳥取城は吉川経家を城主に迎える。

秀吉は三木城の兵糧攻めを、ここでも行う。
が学習している。
因幡の米を高値で買い取る。
若狭の方が飢饉と言う事で・・・・・・
経家の来る前に軍資金にと城内の米を売る。
計略だとは思わない!
20日分の兵糧しかなかったと言う。
三木城は別所長治の切腹降伏まで2年近くかかっている。
鳥取城攻めでは兵糧を少なくさせて、早く餓えさせることを考える。
鳥取城は秀吉の思惑通りになる。
河川や海からの毛利勢の兵糧の搬入を阻止した。

20140705_kanbe2

日本海にも水軍がいる。
山陰道なので、吉川元春が主将である。
鳥取城の西側に伯耆 羽衣石城がある。
ここが織田に付いたため、兵糧を運ぶ毛利を攻撃したと言う。
2度と行けない城である!
死ぬ思いで本丸まで行った・・・・・

瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と言う。
毛利の常識と言うより、今までの常識では、冬になれば雪で秀吉が引き上げると!
が兵農分離が進んでいる織田の兵は、弱い尾張兵とはいえ一歩進んでいる。
いつでも戦える。
降服しかないが、秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。
しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害する。
「毛利と織田が激突した日本二つの弓矢の境目で、切腹できることは末代までの名誉と存じまする」

Img_6288

この吉川経家は見たかった。進退が爽やかである!
鳥取城には像がある!
経家が一番ふさわしいのだろう!

但馬に、奈佐日本之介と言う土豪?がいる。
但馬の水軍?海賊?
鳥取城に籠城した!
降伏後、奈佐日本之介は秀吉に許されず切腹させられる。
「城山三郎 秀吉と武吉 目をあげれば海」 にあった話である。
この事実を、小早川隆景は、村上水軍の村上武吉に伝えているようだ!
要は織田の世になれば、水軍のいる場所は無いと言うことだろう!
暗に毛利に付けと言っている!

この城攻めは秀吉、官兵衛の頭脳で勝ったのか?
秀吉にすれば楽な戦いだっただろう!
一向一揆とは和睦。村重は逃亡。三木城も落城している。丹波も平定されている。
一時の危機の事を思えば楽な戦いではは無かったのか?

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