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2014年12月20日 (土)

関ヶ原の合戦(32) 池田輝政陣跡

池田輝政陣跡
ここも案内は無い。
が、別の売り物がある。
その表識が目印になる。
『春王・安王の墓!』

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1441年、関東管領足利持氏の遺児、春王丸13歳、安王丸11歳が捕えられる。
京都への護送中、垂井町で斬られる。

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しかし11歳と13歳が辞世の句なんて残せるのか!
案内には辞世の句が記述してある。

20140923_ikeda_5


墓地の一角にある。
春王丸・安王丸の墓と並んで、池田輝政陣跡がある。
石碑と案内がある。

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池田輝政と言えば現姫路城の城主である。
池田恒興の息子である。
池田恒興は小牧長久手の戦いで長男と共に戦死。
輝政は、秀吉には優遇されていると思う。
秀次の妻妾は処刑されたが、正室の輝政の妹は助命された。

早くから旗幟は鮮明だったと思う。
家康の娘を貰っている。
関ヶ原では抑え役でたいした戦功も無いが、播磨を与えられる。
もっとも岐阜城の攻撃では、正則と先陣争いをしている。
美濃と播磨のどちらかと言われ、家臣は美濃を望んだが、東西の接点である美濃より播磨を選んだと言う!
正則は、はっきりと家康の娘を娶ったから出世しているのだと!
わしらは槍働きで国を取ったが、輝政は一物で国を取ったと、からかわれている!

ともあれ西国将軍との名もある。

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