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2014年12月10日 (水)

本・牢人たちの戦国時代・渡邊大門

戦国時代、武将が戦いに敗れると、仕える武士たちは牢人となった。牢人には、真田幸村、山本勘助、後藤又兵衛などもいたが、多くは、名前を知られることもない武士たちである。主家を失い、「非正規身分」となった武士たちは、どう生きたのか。勝者の歴史に埋もれた敗者の「その後」を、丹念な史料の読み解きから、鮮やかに描きだす。

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牢人?
浪人?
最初に読んで思ったのは、関ヶ原の合戦後の牢人達である。
西軍に付き改易されられる。
宇喜多秀家、長曽我部盛親、真田昌幸等がいるが、許されると思っていたようだ。
立花宗茂は筑後柳川に復帰できた。
要は、負けた方は死ねと言う事みたい!
その牢人の希望は豊臣秀頼になる。

源平時代から戦国時代になる。
この頃から牢人は迷惑な存在だったようだ。
戦国時代は大量に牢人が増える。
牢人自体が悪なのか?
危険視されていたようだ。
秀吉の牢人追放令がある。
新たに町人、百姓にはなれない。
田畑を耕さないものは追放。
主人に断わりも無く新たな仕官先に移れない。
後藤又兵衛が当てはまる。

朝鮮半島出兵から関ヶ原になろ。
宇喜多秀家は合戦前に家中がガタガタになる。
よく言われる、宇喜多秀家位の兵は精鋭か?
吉川広家が、宇喜多軍を評して「まとまりが無くバラバラ」
かなり牢人を雇い入れていたようだ・・・・・・

牢人達を上手く使ったのが、黒田官兵衛。
九州の関ヶ原は、銭で雇ったとは言え、牢人達で戦った。

減封されたが、家臣を追い払わなかった、上杉と毛利!
牢人をあまり出していない・・・・・

関ヶ原の合戦後、牢人達の希望は大阪城になる。
ここにはキリシタン達も多く入城した。
大好きな、明石全登である。
他にもいる。
忠興の息子、興秋。
毛利勝永、氏家行広、石川数正の息子の康長・康勝、織田頼長、塙団右衛門、薄田兼相。
と言う顔ぶれがいる。
記述されていなかったが、大谷吉継の息子、増田長盛の息子らもいる。
司馬遼太郎、城塞にはもっといろいろと名前が出て来る。
変ったところでは宮本武蔵がいる。
関ヶ原、大阪の陣、天草の乱と参戦しているようだ。
全て牢人であるようだ。
武蔵自身が、どちら側で参戦したのか喋っていない様だ!
天草の乱は、幕府側である。
牢人もキリシタンなので、幕府側での参戦が多かったようだ・・・・・・

幕府は徹底的に大阪牢人を追及したようだ。

あえて牢人となった例をあげている。
嶋左近に山本勘介である。
実力があれば再仕官も可能か?
とは言え、後藤又兵衛の例もある。

牢人の悲惨な生活例として、映画「切腹」「一命」をあげている。
同じ滝口康彦の原作だが、どちらも面白い!

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