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2015年10月12日 (月)

安芸・吉川元春館

久しぶりの官兵衛巡りである。
9月の連休は仕事だったので、10月の連休に行くことにした。
何処へ???
毛利の両川である。
前から行きたかったところである。
北広島町の吉川に、三原市の小早川である。
まず吉川元春である。
猛将であろう。
織田との対決を望む??
太平記を書き写した。
それも戦場で??
尼子氏討伐の陣中で元春は『太平記』40巻を書写したと言う。
太平記には多少の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。
吉川本は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから、古典文学研究上きわめて貴重な資料とされる
文武両道と言うのか??
元春は熊谷信直の娘を正室に娶り、生涯側室を置かず4男2女の子宝に恵まれた。
この正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。
不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望みんだ。
「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」
この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われている。
この話は吉川元春の話では必ずでている。
100%信用出来る話ではなさそうである。
実際に不美人であったと言う話は無いとも言う。
織田信長の死後、隠居になったが秀吉の九州攻めに病気でありながら参加させられて陣中で死ぬ。

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吉川元春館は、1583年に建設を開始した。
元春はこの館に入り隠居生活を開始する。1586年に建設半ばで元春が九州で死去。翌1587年に嫡子の吉川元長も病死。
元長の弟吉川広家の頃に完成を見た。が、広家が1591年に月山富田城に移ると、徐々に居館としての機能を失い廃墟と化していった。

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1994年より発掘調査が行われている。

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神戸から4時間以上かかる。
生き生きとして官兵衛巡りに出かけた。

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館跡はすぐに分かる。
が休憩所等は閉鎖状態である。土曜日であるが・・・・・・・・・
観光客はいなかった・・・・・・・・・

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石垣があり館跡がある。
元春のいた頃は人間も多かったんだろう。

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吉川元春館 復元台所
広島県山県郡北広島町海応寺

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