本・謎とき 東北の関ヶ原 上杉景勝と伊達政宗・渡邊大門
歴史モノのキラー・コンテンツのひとつ「関ケ原の戦い」。本書では、上杉景勝と、そのライバル伊達政宗という東北の二人の大名を中心に、関ケ原の謎と俗説を、ひとつひとつ解き明かしていく。情報戦、腹の探り合い、裏切り、アリバイ工作―。数多くの史料を丹念に読み解くことで見えてきたのは、人間味溢れる大名たちの姿だった!
最近著者の本はよく読む。
戦国時代の著書が多い。
通説を見直している。他の研究者も参考にしている。
上杉景勝と言うなら直江兼続である。
関ヶ原で果たした役割は多い!
関ヶ原前後の状況から記述されている。
上杉討伐が始まる。
上杉の出自から記述されている。
上杉も、山内・扇谷・宅間・犬懸とある。
謙信が継いだ上杉は山内である。
その長尾家から、景勝と景虎の対立から越後の領国支配がある。
景勝は秀吉に臣従する事により地位を保つ。
秀吉政権下では、越後45万石、佐渡14万石、出羽庄内三郡14万石、
信濃北四郡18万石の約90万石が支配下にある。
ここまでになり、会津蒲生氏郷亡き後、会津120万石へ移動となる。
越後には堀氏が入る。
がこの時上杉は越後の年貢を持って行ったとある。
これにより堀氏は上杉に恨みを持つ。
他の本でだが、先に蒲生氏が会津の年貢を持って行った。
ので上杉も持って行ったとあるが、この本ではそに記述は無かった。
上杉討伐までの出来事を検証している。
なかなか面白い!
通説を見直している。
三成と家康の対立。
そういう中で大谷吉継の動きも記述されている。
矛盾しているのか?
上杉討伐が始まる。
上杉の藤田信吉が裏切る!
栗田刑部と上杉を出奔するが、栗田刑部は討ち取られたとある。
が実際は生き残ったようでもある。
通説を検証する。
その中で、小山評定はあったのか???
書状の日付から判断すると矛盾が出て来る。
こうなると何を信じればよいのか?
有名な直江状がある。
これは本当なのか?
本書は残っていない。
数多くの写しが残っている。
追而書が有名である。
『会津へ家康が来るなら、上杉も待っているので雌雄を決したい!』
と言う意味になる。
写しにはこの追而書は書かれていない。
書かれているのは、軍記物と一部の書状と言う。
実際どうなのか?
直江状は本物のようだが、追而書は後世の付け加えられたようだ!
ただ上杉の気分としては、直江状の通りだったんだろう・・・・・・
最後は東北の関ヶ原になる。
伊達政宗と最上義光が上杉の敵である。
三成挙兵を聞き、家康は小山から引き返す。
兼続は徳川追撃を主張したと言う!
が、これも書かれている資料が悪いようだ!
信用出来ない様だが、この追撃の話はあったと信じたい!
著者の本は最近よく読む。
検証も、自身と他の研究者を合わせて記述している。
面白かったです!
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